日本最古の忍者の主・聖徳太子
 それが「聖徳太子」です。聖徳太子は、日本における仏教の布教に尽力し「十七条の憲法」や「冠位十二階」を作った、古代日本の偉人です。聖徳太子は、「志能便(しのび)」「志能備」と呼ばれるスパイを使い、朝廷内の動きを探っていたと言われています。


日本最古の忍者・大伴細人
 そして、聖徳太子が志能便として活動させていたのが大伴細人(おおともの ほそひと)です。この大伴細人が日本最古の忍者であると言われています。元々、大伴細人は強い勢力を持っていた豪族の大伴氏の出だったのですが、聖徳太子が活躍していた時代には没落していたと言われています。一説によれば、聖徳太子は大伴細人以外にも服部氏族などの忍者を使っていたと言われ、服部氏族が伊賀忍者、大伴細人が甲賀忍者の源流になったと言われています。


蘇我氏も忍者を使っていた!?
 また、一説によれば聖徳太子の親戚であった当時の実力者・蘇我馬子も忍者を使っていたと言われています。しかし、馬子の忍者は聖徳太子が使っていた「志能便」と違い蘇我氏の政敵を排除する。いわゆるアサシンであったといわれています。蘇我氏は聖徳太子とは別の形で忍者を使って、自分たちの権力をゆるぎないものにしていったのです。


では、聖徳太子や蘇我馬子はどこから「忍者を使おう」という着想を得たのでしょうか?

忍者とは間者であった
 そもそも、忍者の仕事はスパイ活動そのものであるといっても過言ではありません。スパイの重要性は、中国の兵法書「孫子」においては丸ごと一章を当てて解説されているほどに昔から知られているのです。聖徳太子や蘇我馬子は、中国から伝わってきた最新の知識である「孫子」を学び、自分の政治活動に活用していったのではないでしょうか。


忍者は徐福が伝えた?
 また、別の説では忍者のルーツは不老長寿の薬を求めて秦から旅立った法士・徐福にあると言われています。徐福は「東にある蓬莱と言う国に不老長寿の薬がある」として、船団を仕立てさせ3000人の若い男女とともに旅立ち二度と秦に帰ってこなかったと言われています。徐福が目指した蓬莱とは日本のことで、この時徐福に付き従った男女が後の秦氏のルーツになったとも言われています。また、聖徳太子が志能便として用いていた者は大伴細人や服部氏族の他にも「秦の河勝」という大陸からの帰化人で、後の香具師のルーツになった人物が居るといわれています。つまり秦氏が何らかの形で、聖徳太子に忍者を使うことを決意させたと見るのが自然なのかもしれません。


なぜ聖徳太子は忍者を必要としたのか
 戦国時代ではなかった飛鳥時代の日本において、なぜ聖徳太子は忍者を必要としたのでしょうか? 飛鳥時代の日本は、貴族ではなく豪族によって政治が行われていました。この時代の豪族たちは、流血を伴う権力闘争を絶えず行ってきました。たとえ、有力豪族である蘇我氏の親戚である聖徳太子でも寝首をかかれる可能性はゼロではなかったのです。現に、聖徳太子の一族は聖徳太子の没後に蘇我氏の手で滅ぼされています。それに、政治に関わる上で政敵の動向を把握することは、自分の地位や権力を守ることに繋がります。つまり、聖徳太子は政治家の護身術として忍者を活用していたのです。




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