領主に仕えての隠密行動を主体とする集団。武士や足軽といった身分の集団とはまた別の立場にあった。

「全身黒の衣装」「その中には鎖帷子を纏い、顔には墨を塗っている」「背中に刀」「夜陰に紛れて敵地に侵入する」という印象で描かれることが多いが、黒は夜に像が浮いて見えることから、紺色もしくは柿の熟したような色の衣装を使用していたとされる。現存する「忍び装束」とされる物も、ほとんどが柿色系統である。黒色よりも柿色の方が安価に製造できたからとする説もある。この衣装は、元々は伊賀地方(現在の三重県西部)や甲賀地方(現在の滋賀県南東部)で使われていた野良着が元とする説がある。また、「専用の」装束などは着用せず、その状況に合った服装(町中では町人の格好、屋敷などに侵入する場合には使用人の格好)を用い、黒装束については、歌舞伎などに登場させる際に黒子のように観客に対して「見えない存在であること」を表現したものが後に、現実にもそのような格好で活動していたと誤認されたとする説もある。

戦うよりも逃げることに重点を置いていたため、通常は少しでも身軽になるよう重い鎖帷子は着用しない。 漫画表現として鎖帷子を簡略に描いているうちに網シャツを着たキャラクターデザインに発展した。背中に刀を背負うと動くとき邪魔になるため、大半は普通の武士のように腰に下げていた。ただし床下にもぐりこむときは盾代わりとするために背負っていた。様々な特殊訓練を行い、特殊な道具なども所持しており、この道具を「忍具」、逃走術を含む種々の技術を「忍術」と言う。

忍術には「陰忍」と「陽忍」がある。陰忍とは、姿を隠して敵地に忍び込み内情を探ったり破壊工作をする方法であり、一般的に想像される忍者とはこの時の姿である。対して陽忍とは、姿を公にさらしつつ計略によって目的を遂げる方法である。いわゆる諜報活動や謀略、離間工作などがこれに当たる。古武術には忍術の名残りが見られるものもある。

近年の研究では、身体能力に優れ、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学の知識を持つ技術者集団としての一面も持つことが判っている。

忍者は上忍、中忍、下忍と身分が分かれている。上忍は伊賀では郷士(地侍)で、地主として小作人である下忍を支配している。中忍は下忍達を率いる小頭であった。甲賀では上忍ではなく中忍が最高位とされている。実際に各地の戦国大名に雇われていたのは下忍達であったといわれている。伊賀流は個人技、甲賀流は集団技に優れていた。

戦前は「忍術使い」といった呼称が一般的であったが、戦後は村山知義、白土三平、司馬遼太郎らの作品を通して、「忍者」「忍びの者」「忍び」という呼称が一般化した。飛鳥時代には、聖徳太子が、大伴細人(おおとものほそひと)を「志能備(しのび)」として使ったと伝えられる。(ちなみに任務は蘇我氏などの有力豪族の偵察だった)江戸時代までは統一名称は無く地方により呼び方が異なり、「乱破(らっぱ)」「素破(すっぱ、“スッパ抜き”という俗語の語源)」「水破(すっぱ)」「出抜(すっぱ)」「突破(とっぱ)」「透破(とっぱ)」「伺見(うかがみ)」「奪口(だっこう)」「草」「軒猿」「郷導(きょうどう)」「郷談(きょうだん)」「物見」「間士(かんし)」「聞者役(ききものやく)」「歩き巫女」「かまり」「早道の者」などがある。

現在女性の忍者のことを「くノ一(くのいち)」(“女”という文字を「く」「ノ」「一」と三文字に解体し呼称するようになった隠語表現)とする表現が一般的である。異説として鼻、目、耳、へそ、肛門などの人体にある九つの穴(鼻は一つの穴と数える)に加え、女性は穴が一つ多いことから「九の一(くのいち)」として呼んだと言う説も存在する。しかし穴の数え方が資料によってまちまちのため(例えば、へそではなく尿口を数えるなど)の説もあり、信憑性は今ひとつである。また「くのいち」という呼び方自体が山田風太郎の創作とする説もある。「くのいちの術」と言って女性を使った忍術は存在するが、忍者を題材にした映像作品や漫画作品などで登場するような女忍者は存在しなかったとも言われる。しかし女忍者が女中になりすまし城に潜入したと言う記述も残っており、女中達の「女の噂好き」を利用した諜報活動でかなりの功績をあげていたとされる。また史実に登場するくノ一で有名なのは、武田信玄に仕えた歩き巫女の集団がある。詳細はくノ一の項が詳しい。




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