これが松尾芭蕉という俳人が送った生涯であると言われています。では、なぜ「芭蕉=忍者」説が根強く残り続けているのでしょうか? 有力とされる論拠を検証していきます!


出生地が伊賀で、性を持っている
 「芭蕉=忍者」説の最初の論拠となるのが、この出生地と名字の存在です。この当時、伊賀を収めていたのが「変節漢」と呼ばれた戦国武将の藤堂高虎です。高虎は、織田信長の行った伊賀攻めの影響で散らばっていた伊賀忍者を多数配下にしたと言われています。この時、高虎は伊賀忍者たちを武士として取り立てたので名字を名乗れるようになった忍者が多く出たと言うのが「芭蕉=忍者」説の論拠を補強しているようです。しかし、伊賀出身の有名人である芭蕉の忍者説が出てくるのであれば、同じく伊賀出身の俳優である椎名桔平にも忍者説が出ても不思議ではないはずです。おそらく、この論拠は単純に「伊賀=忍者」「伊賀=芭蕉」「芭蕉=忍者」という三段論法で導かれたのではないでしょうか。


なぜ深川に移り住んだのか
 江戸に出てきた芭蕉は、最初日本橋に住んでいたことが判っています。職業的俳人であった芭蕉は、武士や商人に俳句の手ほどきをして生計を立てていたので、彼らが通いやすい日本橋に居を構えるのはごく自然なことです。一方、深川は芭蕉が越して来る前に両国橋が掛かった、いわば江戸の中でも開けていない町でした。商人の町であった日本橋から離れることは、俳諧宗匠としての収入が減少することと同義であったのです。しかし、深川に移り住んだ後の芭蕉は、収入が減少している筈なのに数回に渡って伊賀への帰郷や関西への旅を行うようになっています。


なぜ何度も旅に出られたのか
 芭蕉の時代、旅行というものはそう簡単に行えるものではありませんでした。各関所での取り締まりと多大な旅費が掛かるため、庶民の立場では旅など夢のまた夢です。関所を自由に通過できる伊勢参りにその夢を託すしかなかった時代だったのです。そんな時代にも関わらず、芭蕉は数回に渡り旅を行っているのです。日本橋時代に知己を得た武士階級の伝手を使って、通行手形を手に入れたとしても旅費をどうやって工面したのかと言う問題が残ります。


「奥の細道」の謎
 そして、「芭蕉=忍者」説の最も大きな論拠となっているのが「奥の細道」の旅です。まず、移動距離と日程から割り出される芭蕉の移動速度が一般人離れしているということが挙げられます。「奥の細道」の旅の総移動距離は約2400kmで、総日程が約150日となっています。これらの数値から一日あたりの移動距離を割り出すと2400÷150=15kmで、当時の単位に換算すると約4里と言う所です。しかし、この総日程にはまったく移動しなかった日が含まれています。つまり、150日ずっと移動していたわけではないのです。この移動しなかった分を取り戻すかのように、一日で50km以上も移動している日があるのです。年齢的には壮年に差し掛かっていた芭蕉が、これほどの移動距離を一日で歩くのは無理があると考えられています。


「奥の細道」日程の謎
 移動距離だけでなく、日程そのものにも謎があります。まず、「奥の細道」では3月27日に出発したことになっているのですが、同行した河合曾良の記録では3月20日に出発したと記されているのです。また、芭蕉がその感動を「松島やああ松島や松島や」としか詠めなかったと言われる日本三大名所のひとつである松島を、実は芭蕉は素通りしているのです。その代わり仙台藩の重要拠点とされている石巻港などを見物に行っていたことが、河合曾良の記録には記されているのです。また、松島で詠んだとされる句も後年に詠まれたものが芭蕉の句として伝わっているだけで、芭蕉自身は「いずれ誰かが松島の素晴らしさを詠うだろう」としているのです。それもそのはず、芭蕉は松島を一度も訪れなかったのですから。


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