これらの芭蕉の俳人としての不可解な行動は、忍者としてというより密偵として考えると謎が明らかになります。なぜなら「伊賀出身=忍者というわけではない」と言う点、俳人として名を高めていたこと、旅に何度も出られるほどの資金源と通行手形の出所などを考えると「幕府が公認した密偵として手形と資金を提供されていた」と考えるほうが自然だからです。わざわざ、収入を減少させてまで日本橋から深川に移転したのも、幕府側に都合が良い場所だったからと考えることが出来ます。


「奥の細道」は仙台偵察の副産物だった?
 芭蕉がこだわった仙台は、独眼竜・伊達政宗の領地であることは有名です。正宗は「あと20年早く生まれていれば天下を手中に収めていた」と言われる、無念と野望を抱いていた武将です。徳川幕府が樹立し三代将軍・家光から慕われるようになってもなお、正宗はその野望を燃やしていたと言う史実も存在しています。つまり、徳川幕府にとっては、仙台藩はある意味で獅子身中の虫と捉えていたのです。しかし、忍者を放てば正宗に仕えていた忍者・黒脛巾(くろはばき)に察せられる恐れがあります。その点、俳人として名が知られていた芭蕉ならば、創作活動を名目にして仙台藩に入り込み要所を見物していても不審がられないという利点があります。つまり、芭蕉は幕府から「仙台藩への綿密な偵察」を条件に東北旅行を許されたのではないでしょうか。この時、カモフラージュの一環として詠まれた句が纏められて「奥の細道」になったと考えるほうが自然なのです。


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